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2011年春
2011年春
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かつてマスクド・モリタと呼ばれていた者さん
スーパー無職 Twitter https://twitter.com/maskdemorita_2 - 投稿日:2017/03/11 14:46
2011年3月11日14時46分。
東日本が大きく揺れたあのとき、ぼくは『新鬼武者』のARTを消化していた。
渋谷の、いまはなくなってしまった5階建てのパチンコ屋でのことだった。
一斉に逃げる客たち。
ボーナスや確変もそのままで、倒れた椅子が散乱していた。
そのフロアでは、ぼくと数人の客、そしてスタッフが残っていた。
大量のゲームが残ったART中だからということが一点。
日本の耐震技術をもって建てられたビルだし大丈夫だろという過信が一点。
そのときの実戦模様を自社開発のSNSで発信していたのだが、「ICカードの抜き忘れがこんなに! でも、防犯カメラがあるから盗めない」というふざけた投稿をしようと思っていたのが一点。
なんにせよ、たいしたことではないと思っていた。
2度目の揺れが来て、店が急きょ閉店することになった。
ART中の画面を残したまま、流したコインは7,000枚。
特殊景品の交換はせず、ホテルを探した。
交通機関が完全に麻痺していたから。
夜になり、ホテルはおろかネットカフェもあきらめたぼくは歩いて目黒の会社へ戻った。
テレビとネットであらゆる情報を集めた。
当時多くのひとがそうだったように、地震のことばかり考えていた。
あふれ出てくる言葉を削り削って800文字のコラムを書いた。
被災地へ行く計画を立てた。
ゴールデンウィークに入り、ようやくそれが実現できた。
有志4人による東北三県旅打ち。
日数はおぼえていない。
現地の読者に会うことを主目的とし、パチスロで勝ったお金は全部その土地に落とす。
そんな旅だった。
宮城県に入り、仙台空港周辺へ着いた瞬間、ぼくらは言葉を失くした。
なんにもない。
家もがれきも。なにもかも。
アスファルトの道路はひび割れて、隆起していた。
自衛隊の車以外はほとんど走っていなかったが、スピードを出しての移動はとても不可能だった。
知らない村に着いた。
ひとは1人もいなかった。
家の多くはゆがんでいた。
アルバムや手帳など、救助活動の際に見つけた思い出の品を集める場所があった。
屋根もなにもないただの道に。
現地の読者に会うと、とてもとても喜んでくれて、すっかり元気を失っていたぼくたちが逆に励まされた。
翌日。
海沿いを走って岩手県に入った。
石巻では、海から遠く離れた場所に流された船があった。
気仙沼は、魚の腐った臭いが充満していた。
パチンコ屋はとても盛況だった。
そうなる理由がよくわかった。
宮古で、友人と合流した。
歌を届けるため被災地を巡っているとのことで、ぼくたちが持っている救援物資を預かってもらった。
ここまでで12人の読者と会った。
皆元気だった。
ぼくは、いつのまにか長年愛用した覆面を失くした。
最終日。
福島県に入る。
会津若松で1人と会い、いよいよ最後。
相馬だったか南相馬だったか、とにかく避難区域ギリギリの場所に2人の読者がいる。
婚約中の若いカップルだ。
旅の始め、「自分は原発の近くには行かない」と宣言していたメンバーもこのときには心変わりをしていた。
日本料理屋でたくさん話をした。
彼女の方は、九死に一生を得ていた。
避難する車の後ろから津波が追いかけてきたのだそうだ。
どんな話の流れだったかはおぼえていないが、四つんばいになったぼくがその子に踏まれる、という写真を撮った。
店の方に撮影してもらった集合写真では全員おもいっきり笑っていた。
2011年の春はこうして始まった。
【 マスクド・モリタ Twitter】
https://twitter.com/maskdemorita_2
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かつてマスクド・モリタと呼ばれていた者さんの
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このコラムへのコメント(2 件)
幸いなことに、3.11が来るとテレビやネットで扱ってくれるからいまはまだ忘れないでいられます。
阪神淡路大震災は?
熊本地震は?
それより小さいけど被害があった災害は?
考えればキリがないのかもしれませんが、
自分が思いを馳せることができる範囲で
やれることをやっていこうかな、と。
あの日、1回目の地震でみんな笑ってたんだ。
珍しく大きいのきたなぁって。
とりあえずドア開けとく?
みたいな。
そこから2回目が起きて大変な事態だと気づいたんだ。
あれから6年経って、何が変わったのか、いや何にも変わってない。
風化させちゃいけない。