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ある日のお時間3
ある日のお時間3
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タイルまんさん
世の中で一番必要ないものって知ってる? お金だよ。 お金さえなきゃ戦争だって起きず平和になるんだ…。 だから皆のお金を処分してあげるからオラに皆のお金をわけてくれ! - 投稿日:2016/02/21 16:37
時は戻り初代モンキーターンで1万を溶かして店に呪いをかけながら久々に豪華な夕食を買って帰宅した。
松屋の定食をお持ち帰り(豚汁付き)なんて豪華だわぁ…市役所に謝謝!
ホクホクで帰って雑誌を読みながら飯を食べてると電話が。
あ、たっちゃんだ。
たっちゃんとは幼稚園の頃からの幼馴染で高校卒業と同時に一緒に東京へと進学した顔は森山未來似のパチンカーである。
なんだ?
電話を取ると
た「おい!テレビ見たか?」
なに興奮してんだ?たっちゃんがこんなテンションなんて珍しいな。
俺「いや?今日出かけてて今さっき帰ってきた所だから見てないよ」
た「はぁ?今すぐ点けろ!」
俺「何チャンよ?」
た「何チャンでもいいから!今すぐ!」
面倒くせーなー…。
でもたっちゃん焦ってるな。
まさか…。
嫌な予感はした。
俺の大好きな北川景子が結婚したのか!?
うおおおい!!
それだけは駄目だ!
許さん!お父さん許さんぞ!!
急いでリモコンを取りテレビを点ける。
テレビが起動するたった数秒がとても長く感じた。
そして映った映像は…。
俺「記者会見やってねーよ」
た「あ?なんのだよ!」
俺「こっちの話だ。で?なんかしたの?ニュースやってるな」
た「お前本気で分かってねーのか?」
俺「ん?あぁ。これさぁ、どこの…」
映像には悲痛な声と共に大量の水が建物を壊し奪い去っている映像が流れていた。
その中には俺のよく知っている町の名前が出た。
名前だけではない。よく知っている町が丸ごと流されていく映像が目の前で…20インチのテレビを通して映っているのだ。
後に日本中で呼ばれた名前は
東日本大震災
た「…俺らの地元だよ」
やっと察した俺の耳元で受話器越しに静かにたっちゃんはそう言った。
俺「なにこれ…」
た「今日昼間に地震あったろ?あの後に来たらしい」
今日ってエイプリルフールかな?と思った。これはテレビ局が一斉に国民を騙す為に流している映像だろうと。映画の1シーンだろと。
現実か夢か分からない。
この映像は○○のとテロップが出ているが名前は知っているしその場所にも行っているのに大量の水と変わり果てた姿で俺の知っている場所では無く別な場所を映していると錯覚する程だった。
そして次の映像…。
学生の時によく親父に連れてってもらってたパチンコ屋が高波に飲み込まれているシーンだった。
その時瞬時に思った事は
あ、親父はもう死んだ。
俺「駄目だ…多分親父死んだわ…」
たっちゃんに説明した。
た「まだ分からないだろ?決めつけんのはよくないぞ」
変な話だが意外と冷静だった。
冷静というより諦めなんだろう。
どんなに頑張っても天災には人間は勝てない。
痛感した。
翌日早朝に職場に連絡をして休みを貰った。そのまま実家へと車で帰った。
ここまで書いといてだがこれ以上は詳細は書きたくない。
いや…書けない。
きっと不快に思う人達もいるだろうから。
なら何故書いたのか?
書かなければいけないと思った。
当時を簡単に説明すると無惨なものだった。
建物と共に思い出も殆ど流された。
しかし不幸中の幸いで実家や家族、親戚は無事だった。
親父もその日はたまたま会議で海沿いに居なかったらしい。
そして流され更地になってしまった街を見た。
たった2〜3日前までここには確かに街があり何も無い田舎だけど人が住み暮らしていたんだ。
けれど建物らしきものと残骸の山…。どこに何があったか…どこが道路だったかすら分からない。
俺はまだマシな部類だ。
おふざけではなくTHE YELLOW MONKEYのJAMという曲にこんな一節がある。
外国で飛行機がおちました。ニュースキャスターは嬉しそうに「乗客に日本人はいませんでした いませんでした いませんでした」
僕は何を思えばいいんだろう。僕はなんて言えばいいんだろう。
昔の曲だが重くて考えさせられる歌詞だ。
例え家や家族、親戚が助かってたって他に犠牲者がいるのに素直には喜べないのだ。どんな顔すれば…どんな感情になればいいのか分からないのだ。
書かなければいけないと思ったのは3/11が近いからだ。
当日に書いたって仕方ない。
今となってはあまり全国的に報道されなくなって近くになればあの震災からというが…。
被災地域に住んでる人達にとって震災は現在進行形なのだ。
別にずっと覚えてろなんて言わない。募金しろなんても言わない。
そもそも俺だって東京にいたし一応な打撃もあったが第3者みたいなもんだ。
だから偉そうな事は言えた立場ではない。
分かっててもらいたいのは…まだ震災中という事である。普通に暮らしてはいるけれど過去にはなってないのだ。普通に…仮設住宅で暮らしている人達がいて普通なのか…?
3/11 14:46 この時何も無ければ俺の人生も今とは別になっていただろう。
でも過去の事をたらればで話したって仕方ない。なっちまったもんはもう戻せないんだから。
今年もその日が嫌でもやってくる。沢山の命が消えて沢山の人の人生や生活が狂わされた日が。
ここに書かせて貰ったのはパチ7を見てる人達は良い人が多いからどうか3/11の14:46になったらパチンコやスロット打っててもいいから気持ちだけでもそういう日だったなと思ってもらいたい。きっと打ちながら逃げ遅れた人達だっている。ご冥福だけでも祈ってほしい。
俺なんかがこんな事を書いておこがましいのは重々承知です。しかもまたパチンコ関係ねー事を書いちゃってるし(笑)
それも愛嬌と思ってもらえたら(笑)
あの流されたパチンコ屋があった場所を通る度に情報屋の人や知らないおじさんは大丈夫だったのかなと思ったりしていたたまれなくなったりもする。顔も忘れちゃったしこれといって親しく会話もしていないのに不思議と思い出す。もしかしたらもういないのかもしれない。
人から見ればとても薄い繋がりかもしれないけど…ギャンブル嫌いな人から見ればくだらない繋がりかもしれないけど…それでも人がいなくなるのは哀しいものですよ。いついなくなるか分からんのです。命なんぞ簡単になくなります。だから隣の人や周りの人…大切にしたいものです。
これを読んで不快に思われた方々がいらっしゃったら本当に申し訳ありません。当時は確かに現場にいなかったんですが今は地元に戻り被災地と呼ばれる場所で暮らしています。先にも述べた通り失うものは最小限だった俺なんかが言う事では無いのかもしれません。けれど言わせてほしかった。多分こんな話をする事はもう無いだろうし…何より5年が経って1つの区切りみたいな風潮が許せなかったのです。ふざけんな!未だに苦しんでる人達はいるんだぞ!涙流す人がいる限り区切りなんぞねーんだよ!
災害に大きいも小さいも無いと思うんです。それは阪神もそうだし土砂災害もそう。何か行動してくれじゃなくてそういう事があって消えてった命があるってのを忘れないでいてほしいんですよね。そんなつもりでは書いてませんがこれを不幸話と思うのも自由です。良い意味で少しでも分かってもらえたらと思い自由帳の自由という部分を信じて書かせてもらいました。
これである日のお時間は終わりです。
ご静観ありがとうございました。
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タイルまんさんの
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このコラムへのコメント(10 件)
阪神淡路大震災の時は俺も小学生だったので起きてニュース見たらよく分かってないけど大変な事になってるとは子供でも分かりました。馬ッさんも経験者だったのですね。
復興支援の仕事で遠くから来てやっていただいているのはとても助かっております。パチンコ位やっていいじゃない!むしろ娯楽ってそんなもんしか無いし!(笑)
馬ッさんとは連れ打ちと飲みなどしたいです!いつか何人かの東北勢でオフ会したいですね!
誰しもあんな事になるとは思いませんよね。俺もそうでしたし。
そう感じていただける方がいるだけでとても嬉しいです。
自分は当時3,4歳くらいでしたが、兄貴がタンスに潰されそうになりそうなのを父親が必死に止めてた事、
外に出ると夜なはずなのに空が真っ赤だったことを今も鮮明に覚えてます。
東日本大震災のニュースを見て他人事ではないなと感じ、実は今復興支援関連の仕事するために東北まで来ております。
東北まで来てパチンコやってるクズみたいな奴がこんなこと言うのもおかしいと思いますが、少しでも元のように戻るように尽力したいと思っております。
正直、当時みんなで「珍しく大きい地震来たな」くらいで談笑してて
家に帰ってから大きい被害に気づいて愕然としてました。
こうやってタイルまんさんが辛い記憶を記事にしてもらえるおかげで
風化させないで復興が進むようにできる努力はしていきたいなと強く思います。
押さなくていいんです。むしろ押されない方がいいんです。交通機関にも影響ありましたからねぇ。
色々な人が色々な事を思わされた日ですよね。
相当なものでしたからね…。
そう言っていただけると書いてよかったと思えます!
絶望でしたね。本当何が起きてるのか全く分かりませんでした。
忘れず後世に残す事が一番大切なのかもです。
あの日会社から15㎞歩いて帰る際に、
至る所のビルから割れた窓ガラスが落ち足元に散乱していた光景も
TVが映し出した異世界のような光景も忘れられません。
あの日は自分の中で価値観が大きく変わった転機の日です。
みんな、そっちのけでテレビに釘付けになっていたのを覚えています。
今でも動画サイト等で直後の情報、情景など見る事が出来ます。決して風化されてはならないし、又記憶しておくべきとコラムを読んで感じました。
僕は勤務中、社内食堂のテレビの生放送に釘付けとなりました。ただただ恐怖でしたね、当時は。
毎年の様に、当時を思い出します。
きっとこの先も忘れる事は無いです。