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始発電車で遠征、財布に11万。
始発電車で遠征、財布に11万。
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異世界カラスさん
幸チ○レ応援団の者です。 - 投稿日:2017/01/14 09:01
今から約20年前、調理師の専門学校を卒業するも親に敷かれたレールの上を歩く事に嫌気がさし、高島平の中華料理店を半年で辞めて柏のアーケードの中にあったパチンコ店へ就職。
そのパチンコ店は完全二部制(遅番勤務)で休日は週休制、月給は保険等未加入で手取り22万円。給料日は毎月10日。
給料をもらった次の公休日には、前の給料日から情報収集をしておいたバッキバキの裏モノが置いてあるホールへ行くのが恒例だった。
財布に軍資金10万と電車賃と食費で1万の計11万を財布に入れて、東京や神奈川のホールに行っていた。
家は千葉県野田市だったので東京上野に出るのに約1時間、神奈川まで行こうとすれば2時間はみなくてはならず、当然ながら10時の開店に行ったらお目当ての台に座れない人気ホールも多かったので、1時間2時間の並びも日常茶飯事だった。
最初は新小岩のホールをよく行っていたが、そのうち聖地と呼ばれていた神奈川の噂を聞きつけ、川崎・横浜・大船辺りまで遠征していた。
神奈川のホールは並びもそれなりだったのでだんだんと起きる時間も早くなり、最後の方は始発で神奈川のホールに行くようになっていた。
完全二部制の遅番勤務だったので始発に乗るともなれば睡眠時間は3時間もなかったけど、そこは睡魔よりもテンションが上回り、目覚ましよりも早く目が覚めるほどだった。
当時はまだまだ3号機の裏モノが多く残っており、好んでよく打っていたのはリノ、ドリセブJr、Mr.マジック、アラジンⅡ、2号機のサファリラリーなど。
とにかく相性の良かったのは市川駅前のS店のリノ。
ここはリノが本当にすごくてお客も多かったので台の取り合いやいざこざもあったけど、結構勝てていたので休みの度に行くようになって、いつのまにか常連さんと仲間になり、雇いサクラや遠隔などやっているお店などを教えてもらったりした。
この頃の並びは今みたいにきちんと整列なんかしてなかったから、半年に一度の新装開店ともなれば開店と同時に入口のドアを開けたらダムが決壊したように人がなだれ込んできて、必ずケガ人が出ていた。
中には転んだ衝撃で入口のガラスが割れて流血する人も。それでもタオルで止血しながら打ってる猛者も稀にいたりして。
一番勝ったのは新小岩のホールのグレートハンターで約8,000枚。
一番負けたのは神奈川伊勢崎町のホールのアジンⅡで10万入れてノーヒット。
この裏モノ遠征は2年ほど続いたけどトータルではほとんど負けてた記憶。
当時は等価のホールはほとんど無くて、6~7枚交換のホールが多かったので万枚当たり前の4号機AT機時代に比べると見劣りするけど、「鉄火場」と呼ばれた当時の裏モノコーナーの雰囲気が僕は大好きだった。
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異世界カラスさんの
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このコラムへのコメント(7 件)
最近のゲーセンも裏モノ化してます。笑
あの頃は3号機はスーパープラネットとコンチネンタルⅢ以外はほぼ裏だったと思います。
4号機もあったのですが山佐やユニバ以外のあまり聞かないメーカーだと大体裏でした。
北電子や大都(当時はエーアイ)も弱小メーカーだったので、4号機初期の台は半分以上は裏返っていましたね。
パチ屋の給料については相場よりも安かったかもしれません。
ですが勤務中にどうしてもタバコ吸いたかったらホールの隅でちゃちゃっと吸っていい(お客から見える所で)ようなホールだったので、かなりゆるいホールでしたw
パチ屋さんのお賃金、以外に手取りがすくなくてびっくりでした!
学生の頃からストリートファイター2の
強い人と対戦がしたくて、
毎週東京・埼玉にソロ遠征にしていました。
そのときに遠征の楽しさを知ってしまったのでその流れで、
社会人になってゲーセンがパチンコ屋に変わっただけでしたw
色んなところに行かれてますな
ビンゴです!さすが!
今はマツキヨになってますね…(GoogleMap)
あそこのまかないはおいしかった思い出(^^)