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栄枯盛衰
栄枯盛衰
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ガネーシャさん
ひょんな事から、四国に渡り今では四国のホールでの立ち回り。 メインは香川県での稼働ですが、徳島にも足を延ばしたり延ばさなかったり。。。 - 投稿日:2022/01/11 23:03
ここ、10年くらいで小さな地域密着のパチンコ屋さんが、周辺の大型チェーンホールが新しく出来たことによって潰れてしまう事が、少なからず皆さんが住まれているエリアに1つ2つあったと思います。
僕が住んでいるエリアも、小さなパチンコ屋さんが潰れて、大手のチェーン店のホールに名前を変えて新規オープンしたり、以前四国に住んでいた時は、比較的大きめな地域密着のホールも潰れてしまって新しく古着屋さんになっていたりしていました。
昔のゆったりとしたローカルな雰囲気のあるパチンコ屋さんが1つ、また1つと潰れて行ってるのでは無いでしょうか。
数十年前に、大学生の時に長野の雪山に春休みの2ヶ月間山籠りしたりもしていましたが、イベントの日には雪山のバイトの休みをわざわざ取って、朝イチのオープン前からバスでパチンコ屋さんに向かって雪が積もっているパチンコ屋さんの前に2、3時間並んで入店した思い出のお店も、今ではコンビニになっていました。
僕にも、1つ思い出のあるパチンコ屋さんが10月位に潰れたと言う情報を得ました。
そのパチンコ屋さんは、僕のパチスロ生活で4号機のニューパルやジャグラーの設定変更の変判や、設定5以上が分かる、5判とかもそこのパチンコ屋さんで学びました。
北斗の設定変更の時のモード移行の前兆モードを拾えたり、グランドオープンの時は、前日の深夜12時から並んだり、熱くなり過ぎて梅松で18万負けたり、吉宗で人生で人生最高の18,000枚を出せたり、色々な思い出がありました。
5号機に変わった時には、ダイナマイトマンや、スーパーお父さん、夢夢ちゃんなど5号機の楽しさも教えてもらいました。
本当に、ココのお店で勝つ為の立ち回りとかも学べましたし、大学2回生の時には365日の300日位通いつめて、その年の単位は8単位しか一年で取れませんでした。
お陰で五年生を小学生振りに味わえました。
店舗的には、大型店でパチンコ、スロット合わせて千台近くありましたが、5号機が全盛期の時にはベニヤ板の島があったり、紆余曲折しながら営業していました。
僕も社会人になり、住んでる土地を離れてからは全然行けてませんでしたし、地元に帰ってきてからも近くのお店での立ち回りをメインにしていたのと、周りの友達からは、「もうあの店はあかんよ、客が飛んでる」って話だけきいていました。
そうしていると、「あの店が潰れた」と言う話を聞きました。
チェーン店で比較的大型店舗でも潰れてしまう事態なんだなと思うと共に、今までそのお店での思い出が色々と湧き出てきました。
今では、イベントを大々的に打つことも出来ませんし、SNSが普及しているので気を抜いてお客から抜きすぎると一気にマイナスイメージが広まって客足が離れてしまうし、お店としても難しい時代に突入していると思います。
でも、僕のパチスロ人生を形成してくれたお店が潰れたと聞いておセンチになりました。
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ガネーシャさんの
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このコラムへのコメント(8 件)
どんどん中小パチンコ屋さんは淘汰されて行きますよね。経営のセンスも問われて行きますよね。
勝っても負けても良い思い出になりますよね。
昔のパチンコ屋さんはフローリングがバキバキの床とか結構ありましたよね。1980年代は僕が生まれた年代なのでその当時のことは分かりませんが、凄くパンチの効いたお店が沢山ありそうですね!!
麻雀とパチンコ屋さんはセットでしたよね。徹マンしながら、あちこちの卓で今日はどこへ打ちに行こうとか言う話を聞けました。どうしようもないお店でもそこが潰れたら嫌な思い出も懐かしくなりますね。
仕事柄、全国パチ屋の開店と閉店件数の情報が入ってくるのですが、毎回胸が痛くなりますね・・・。
新年初ツレ打ちを計画していたお店だったので、ちょっと。。。ねぇ。
負けていますがそれなりに思い出のあるお店が無くなるのは、オセンチですね。
1980年代から通ってた他のお店は全滅でしたね(屋号変わって残ってるところはありましたが)
床ワックスの臭いと軍艦マーチが流れる空間を思い出しました