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万枚のプレゼントを君に
万枚のプレゼントを君に
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ポリンキーさん
連れ打ち大好きなラッコ。 コラムも漫画も携帯に指でかいてます。 やさしくしてね! - 投稿日:2018/10/07 12:42
スロットを本格的に打ち始めたのは大学生のころ(年齢的には当たり前なんだけど察して)。
それまではAタイプや3号機の裏モノなんかをちょいちょい触ってただけだったが、大量獲得機やAT機の登場で、すっかりパチンコよりパチスロをやるようになっていた。
そしてその頃からスロッターたちの目標とするものが「万枚」、いや当時は2万枚、3万枚もありえた。
実際にわたしが目撃したのはアラジンAの7万枚が最高。
こういう事故での万枚越えも頻繁にあったが、やはり当時の設定6がエクストラな機械割だったので、座れば万枚の獣王、ハクション大魔王、大花火なんかはイベントでよく使われました。
大学生→AD→専業とこの時代を生きておりましたが、1日高設定を打ちきるということはしなかったためなかなか万枚は出せずにいました。
獣王初打ちの8000枚、ADの時に仕事遅刻するはめになる朝からのミリオンゴッドで9000枚、バイトをさぼるはめになるトリックモンスターの8000枚など未遂は数えられないほど。
なぜ未遂で終わるかというと、ゾーンや天井ハイエナを基本としていたので、一撃出たらやめちゃってたんですね。
例え万枚狙えても、ゾーン抜け即やめ。
正直万枚を出すことより、勝つことのほうが大事だったのでこだわりがありませんでした。
一撃で出さない限りは達成できないものだったのです。
ADの激務に力尽き、退職した25才の冬。
当時実家の長野に住んでいた大学からの彼女がこっちに2週間ほど遊びに来て、わたしの実家に泊まっていた。
遠距離だったので久しぶりに会えたものだからスロットなどせずに遊んでいた。
次なんの仕事するかもわからなく、不安だったが実家に帰る彼女を見送りに大宮へ行き、「まあパチスロでもしてゆっくり考えなよ」と言われ、久しぶりに打ちたくなったわたしは今はもう無い大宮の店でスーパービンゴを打って、しこたま負けた。
余談だが彼女に会うのはこれが最後になる。
その5日後。クリスマスイブ。
まあ彼女も帰り、暇なわたしは両親と東村山のホールへ夕方から打ちにいった。
適当にハイエナしようと思いぐるぐる回っていると、そこそこはまっているスーパービンゴが。
期待値は全然ないが、大宮で負けた悔しさもあり勝負に出ることに。
当たりはどれくらいで来たのか覚えてない。
しかし、最初の関門を突破し、連チャンしだす。
その3連目。
「フゥアフゥア!!!」キター!!
この瞬間のために打ってるんだよなぁと、ガチよだれをたらしながらカウントアップを見ていると、「333」までいってくれた。
よしよし!
5号機のスーパービンゴと違い、AT中は上乗せ一切なし。作業になる。12枚役がバシバシ揃い、純増は1ゲーム10枚あるかないかくらい。
333ゲーム消化して約4000枚。
ホクホクでカウントダウン7を消化すると音が消え当たり。4連チャン!
「フゥアフゥア!!!」
「!??」
に、2連続フゥア!!!?
ラッキー!!これはかなりの出玉が…。111越えた…まだ続く…うそ…うそでしょ…。
ゴーンゴーンゴーンゴーン
鐘の音と共に表示されたゲーム数は「777」。
一撃万枚が確定した瞬間である。
終了後、即流し。
12000枚オーバー。
クリスマスイブに人生初万枚のプレゼント。
2日後に再び同じ店に両親と行ったわたしはスーパービンゴに座り…。
再び12000枚を出した。
2戦連続万枚。
これが4号機最後の万枚にもなった。
年明け彼女の浮気が発覚し、自暴自棄になったわたしは一年間専業としてパチスロを打つ毎日が続いた。スーパービンゴも打ちまくった。かなり稼いだ。
ただ、一度も万枚は出せず、次の万枚は実に10年後の2013年になります。
5号機になってからも9500枚などの未遂は何回もありましたが、万枚は2回のみ。
自分にとって万枚とは一撃万枚のことであり、そこを目標に打たないまでも、達成した時の興奮は忘れられません。
6号機になったら難しいと言われてる万枚。
もう一回くらいはやってみたいなぁ。
三重「二万枚も目指せるで。おいで。」
「!?」
つづ…く…?
10
ポリンキーさんの
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このコラムへのコメント(4 件)
そして「倍返しだ!」と言って2倍にして取り返してきて下さい!(ง •̀ω•́)ง✧
久々に会ったら
………。
良かった…… のあの人でしたかね? 多分。
三重だったら2万どころか4万狙えますぜ…