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⑤出玉以外の言葉を使うこと

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⑤出玉以外の言葉を使うこと

プロフィール画像
アリオリ侍:Reさん
カボチャに脳を焼かれたスロッター。現最推しはフェアリーグランプリ。めちゃくそ面白いぞ。
投稿日:2023/02/21 23:59

-------------
またまた締め切り直前の投稿です。
前回の記事もまだ修正できていません。
今回の記事もまだ校正も画像差し込みもできていません。
なんとかします。
なるべくはやく。
-------------




今回は、本題から入ります。
「ヨイコノミライ」という漫画をご存じでしょうか。

ヨイコノミライは、2003年からWEBコミックとして連載しはじめますが、
単行本が3巻まで出版された後に、運営会社の倒産により連載中断。
その後、ファンや関係者の尽力で執筆再開する事ができ、
加筆修正された完全版が小学館より発売され、全4巻で完結した漫画です。

{Photo01}


https://www.shogakukan.co.jp/books/09188328


作者は、きづきあきら。
のちに夫となるサトウナンキとともに当時から漫画制作を続けており、
今はきづきあきら+サトウナンキ名義で執筆しています。
代表作である「うそつきパラドクス」(白泉社)は、2013年に実写映画化もされています。

ヨイコノミライは、2003年という時代にWEBコミックとして生まれたというだけで稀有の存在ですが、
未完成で終わるはずだった作品が別の出版社で完結させる事ができたという実績は、
漫画史的にも重要な位置にある作品だと個人的に思っています。

ヨイコノミライのストーリーについては、完全版第1巻の裏表紙にある紹介文でご紹介します。


日々、漫画とアニメの雑談に興じてばかりの門倉高校漫画研究会。
部長の井之上は、やる気の見えない彼らに部誌の発行を提案する。
そんな中、ささいなきっかけで漫研に入部する事になった青木杏。
入部早々、杏は巧みに彼らの自尊心を刺激し、
漫研の平穏でぬるい日常が大きく揺らぎ始めた……。

気鋭・きづきあきらが描く、痛く切ない青春物語


舞台となっている漫画研究会の面々は、
漫画やアニメ好きが興じてなのか、
読んでいるこっちが恥ずかしくなるほど、発言や行動があまりにも痛々しい人たちです。
今の言葉で彼らのような存在は、「限界オタク」などと呼ばれるのでしょうか。

この漫画の突筆すべきは、そんな恥ずかしいオタク達の描き方でしょう。
彼らオタクのありようは、2000年代オタク界隈に籍をおいた事のある人であれば、
きっと「いたいたこんなやつwww」と反応してしまうはずです。

作中には様々なタイプのオタクが登場するのですが、
例えば声優になるのを夢見る大門夕子というキャラは、
「アホ毛」をハードワックスでわざわざ立たせるのが日課。
部の中ではちやほやされている一方、クラスメイトには冷ややかに見られ、
クラスで浮いている存在です。

{Photo02}


(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」 第1巻より引用)

オカルトマニアな腐女子・平松かの子は、
コミュニケーションの中心が自分語りと妄想の開陳です。
同人作家と即売会で話した事をきっかけに、その作家を信奉し、粘着してしまいます。
また、物語の設定だけを考えたりするのは達者でも、
実際に漫画を描くための努力ができず、そしてそんな現実を直視できません。


自分にとっては「いたいたこんなやつwww」なのですが、
一方で「あ、これ自分だ」となる瞬間が度々やってきて、
多大なダメージを読者に浴びせるのがこの漫画の凄さです。

例えば前述の「アホ毛」は、自分にとっての「土爪」です。
ファンタジーであるはずの二次元に憧れ、分不相応に真似をしてしまう痛々しさが心を抉ります。
まじでやめてくれ……。
土爪(トウチャオ)については、前回話しているのでそちらをご参照下さい。

設定を考えることばかりが捗るのも、かつての自分です。
それを作品化する力もないのに、設定ばかりを大きく膨らませ、
「いつか作ってやるぞ」と意気込んでいたあの頃がとっても懐かしいです。
いまでも本棚に挟まっているオリジナルRPG(予定)の設定ノートは、
墓場まで大事に持っていきます。

{Photo03}


(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」 第1巻より引用)


この本を初めて読んだ時、自分は大学生だったと思います。
登場人物たちの持つ特有の痛々しさからは、すでに自分は卒業していたものも多かったです。
しかし『このキャラと同じこと、未だやっちゃってるよ…』なんて青ざめる事が、
アラフォーとなった今でも読み返すとあります。

単に「いるいるこういう奴www」と誰かを馬鹿にしながら、
この作品を気持よく読む姿勢もあるとは思います。
しかし自分にとってのこの作品は、自分の一部を登場人物に置き換えて客観視させてくれ、
そして自省を促してくれる作品なのです。


それだけでなく、進路で悩んでいた当時の自分を、
「夢はつぶれたり、消えたりするものじゃなく、ただ、形を変えるだけなんです」
という言葉で励ましてくれた作品でもあります。
夢はずっと追わなくてはいけない、でなければ後悔するという強迫観念から、
この言葉は解き放ってくれたのです。

{Photo04}


(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」 第4巻より引用)

あえて電子版の販売リンクなどは載せませんが、
できれば皆さんに読んで頂きたい、オススメの作品でもあります。




さて、特にご紹介したいヨイコノミライの登場人物がいます。

「天原強(あまはらつよし)」という名前のキャラクターです。


批評家を自称する彼は、部員が作ったものを厳しく評価するのが自分の役割だと考えています。
また、アニメに対する自説を滔々と語ったり、
自分の推すアニメのDVD全巻を無理矢理貸し付けたりします。


ネット上の掲示板に出入りをしていますが、そこでも利己的で、アクセス禁止になることも。
しかし当然の事をしていると思い込んでいるので、自分が「荒し」である事に考えが至りません。

特定の友人を持たず、作ろうともせず、
そのくせヒロインである青木杏に少し褒められただけで舞い上がり、
自分に惚れていると勘違いをします。

{Photo05}


(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」 第1巻より引用)

こうやって彼のキャラクター性を並べるだけで、「うわぁ……」と声を漏らしたくなります。

なんて酷いキャラなんだ。
たしかにこんな痛いオタクいるわ……。

しかし同時に痛感してしまうのです。
天原は自分だ、と。

……実はそんな天原くんが、今回の本題なのです。


------


今、あなたの目の前にペットボトルの水が置いてあります。
そのあたりの自販機やコンビニで売っている、500mlの水です。


そこで質問。
「あなたにとってその水は、お金にして幾らの価値がありますか?」

自販機で買える値段だとしたら、100〜130円でしょうか。
スーパーの安売りなら50~80円でも買えそうです。
それとも、普段から真水を飲まなかったり、
喉が乾いていなかったりしますでしょうか。
そんな方にとっては、お金を払う価値すら水には無いかもしれません。

人によって、その水がどの程度の価値を持つのかは変わってきます。
また、場所や状況によっても変わります。

自販機とスーパーで比べてもそうですが、
遊園地やプールでは、ペットボトルの水が200円以上する事もよくあります。

極端な例を挙げてみます。
砂漠のど真ん中や、水質汚染の酷い地域ではどうでしょうか。
あなたの全財産を払うだけの価値が、ただの水に与えられる状況もあり得るのではないでしょうか。

このように、「ものの価値」というものは、変動するのです。
人、場所、状況、そして時代など、変動の要因は様々です。

それは金銭的価値に限りません。
例えば「やりたい」という体験的価値だったり、
「ほしい」という所有的価値だったりします。
それらの価値は、金銭に変換する事ができるとは限りませんが、
「ものの価値」のあり方のひとつである事は確かでしょう。

とはいえ「どれだけやりたいか」「どれだけほしいか」といった感情を、
数値的価値基準に置き換える事は困難を極めます。

では、言葉を使ってそれらを表現する事はできるのでしょうか。
「それなりにほしい」と、「めちゃくちゃほしい」では、
後者の方が強い価値が生じていると分かります。

しかし「めちゃくちゃ」が「どれくらいめちゃくちゃなのか」は、人それぞれ違います。
ですから、それを防ぐためには、もっと言葉を継ぎ足す必要があります。

『僕は、誰かからのやさしい言葉がめちゃくちゃほしい。なぜなら、僕は生まれてから一度も両親に褒められた事が無いからだ。テストで100点を取っても、徒競走で1位になっても、次もがんばれと言われるばかりで、褒められた記憶が無い。学校や習い事で疲れたとき、少しでも休もうとすると、だらしがないぞと言われるばかりで、ねぎらってもらった記憶も無い。そんな僕に対して、クラスメイトはすごいと言うけれど、それはどこか突き放したような、温度を感じない距離からの言葉の様にいつも聞こえる。だから少しでもいい。ひと言でもいいから。トラックに突き飛ばされ、意識を失う寸前の僕に、だれか言葉をかけてほしい。これまでよく頑張ったって。ゆっくり休んで良いよって。僕は言葉に、ぬくもりを感じてみたいんだ。だから僕は、この世から消えてしまう前に、人と話せなくなってしまう前に、誰かからの優しい言葉がめちゃくちゃほし』

言葉を継ぎ足すことで「どれくらいめちゃくちゃなのか」を、
多少は肉付けする事ができたでしょうか。

私は、この肉付け作業こそが「評論」や「批評」という行為だと考えています。



-----


評論・批評をそれぞれグーグルで検索すると、次の様な意味として紹介されます。

「評論」
物事のよしあし・優劣・価値などについて論ずること。また、その文章。

「批評」
よい点・悪い点などを指摘して、価値を決めること。

色々と調べたのですが、この二つの言葉に、あまり大きな差を私は感じていません。
この二つの言葉の違いを述べる事はこのテキストの本旨ではありませんので、
あまり拘らないで頂けると幸いです。

ひとつ言えるのは、「評価」あるいは「評価する」という言葉の中に、
「評論」「批評」は包摂されているという事です。

「物事のよしあし」「優劣」「価値」「良い点・悪い点」「価値を決める」といった言葉は、
いずれも「評価」という言葉の中に含まれる概念です。
その評価という行為の中でも、特に文章として論じたり、比較したり、整理したりする事を、
「評論」や「批評」という言葉で表現しているのです。

先ほどの例でいうと、
「めちゃくちゃ欲しい」という言葉は評価と言えるかもしれませんが、評論や批評とはいいにくいのではないでしょうか。
一方で「なぜめちゃくちゃ欲しいのか」を、言葉で肉付けした文書はどうでしょうか。
色んな意見があるとは思いますが、あの文章は(自分で作っておいてなんですが)評論や批評に含まれると私は思います。


さて、小林秀雄という人物は、批評家としては日本で第一に名が挙がる人物でしょう。
その小林は、批評のことを「学問でも研究でもない」とした上で、


生活的教養に属するものだ
(小林秀雄 『考えるヒント』文藝春秋(1974年)「批評」より引用)


と述べています。

つまり、日常生活の中での知的な活動の一種であり、
学者やプロだけが行うような特別な行為ではないとしています。

実際、私たちはSNSなどで頻繁に評論や批評をしています。
たとえばインスタ映えする飲食店へ行って、料理の写真と共に
「チョー美味しかった☆」と投稿するのは、「評価」という行為です。

それに「イチゴのパンケーキめっちゃ可愛くて超アガった~☆
アイスと一緒に食べたら舌がトロけてなくなっちゃうかと思ったし(笑)」
などと肉付けすれば、評論や批評の範疇になってくるのではないでしょうか。
食べログや価格.comなどのレビューもそれと同様です。

私たちは知らず知らずのうちに、評論や批評という行為を、自然と行っている事があるのです。

------

評論や批評は、その対象にプラスのイメージをもたらすものとは限りません。
マイナスのイメージ、つまり対象が「いかに悪いか」について論じた評論や批評も存在します。

この業界で頻繁に見かけるマイナスの言葉のうち、代表的なものは「クソ台」でしょうか。
これまでお伝えしてきた定義でいえば、
「出し方が全く分からんクソ台」という様な表現も評価であり、広義の評論や批評に当てはまるのかもしれません。

評論や批評の意義について考えるとき、
このように「いかに悪いか」について評する事こそが、
評論や批評の存在意義であるという考え方があります。

それを誰が唱えているのか?というと。
実は、先ほどご紹介した、天原くんです。



価値のある人間が価値のある物のみを選び、価値ある作品を完成させられる……
厳しく! 厳しくまいらねばなりませんな

(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」 第1巻より引用)


誠意あればこそ耳の痛い忠告も申してやるのですわ。
甘受するのは作者の義務ですぞ!

(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」 第4巻より引用)

{Photo07}


(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」 第1巻より引用)


言葉の選び方が痛々しい事にカモフラージュされますが、
つまり手厳しい批評こそが、作者と作品にとってプラスの効果をもたらすと言いたいのでしょう。
作中では、天原くんはそういった精神のもと、掲示板で作品について書き込んだり、
漫画研究会で部員が描いてきた作品を辛口評価したりします。

パチンコクラスタの「クソ台」という言葉の裏側には、
そういった天原的な理念が隠れているのでしょうか。
彼の理論が正しいとすれば、「クソ台」的評論や批評は、
パチンコ業界にとってプラスの効果をもたらすという事になります。
それは正しい理論なのでしょうか。


ここで、藤津良太という方を紹介します。

藤津良太は「アニメ評論家宣言」(扶桑社・2003年)をはじめ、
多数のアニメ評論の書籍を出しているかたわら、「アニメの門チャンネル」での配信、
アニメスタッフへのインタビュー、ブックレットの編集などにたずさわっている、
アニメーション評論家です。
カルチャーセンターでの講座も持っており、
私は「輪るピングドラム」の講座などを数度受講した事があります。

彼は「評論とは何か」という問いに対して、このように答えています。


評論とは何か。それは「作品を見た」という体験を、言葉を使って、別の方法で再度表現し直すことだ

(「アニメ評論家宣言 増補版」ちくま文庫・2022年)

ここでいう評論は、前後の文脈や「作品を見た」という言葉選びから推察して、
アニメ評論のことだと思います。

つまり、アニメを見てどんな体験をしたのか。
それを言葉で言い表せばそれは評論なのだと藤津氏は言っています。

「ドラえもんの映画観てめっちゃ感動して泣いたわ~」

こういった文章も、藤津氏にとってはアニメ評論だという事です。
体験という言葉には、考察とか追想とか、あるいは萌えとか。
そういう感情や思考の動きも含まれるでしょう。

私は、藤津氏の講義を受けた後、率直に「評論の意義とは何か」を尋ねた事があります。
かえって来た答えを箇条書きすると

・作家と評論家が、車の両輪の様にお互いを高めあっていた時期は確かにあった
・しかし現在の評論の形は違う
・例えばアニメは、主に企業体で、かつ集団で制作している
・だから視聴者からの評価は当然リサーチされている
・ゆえに作品の質を向上させるといった役割を評論に持たせるのはむずかしい
・しかし後進となるアニメーターや視聴者に対して、何かを遺す様な事はできるかもしれない

という様な事をおっしゃっていました。
当時の記録は自分の簡易メモしか残っていないため、藤津氏の発言というより、
「私はこう受け取った」と読んで頂けると幸いです。

氏の評論に対する姿勢に、私はストイックなものを感じていて、
現に

別にアニメが素晴らしいから、それを一般の人に広めようなどという大それた動機なんか持ってはいない

(「アニメ評論家宣言 増補版」ちくま文庫・2022年)
と書いています。

では受け手の事を何も考えていないかというと、そうでは無いようです。
彼は同書で「大原則を三つ」あげており、
①安易に監督やスタッフの名前を入れない。
②安易な辛口批評はしない。
③鑑賞者のために書く。
として、受け手である鑑賞者を、評論の原則の中にしっかり組み込んでいるのです。

藤津氏は自身のアニメ評論をルービックキューブに例えて


それまで一つの攻略方法しか知らなかった人が、別の攻略方法で遊んでみたら、ルービックキューブの不思議さ、おもしろさ、あるいはパズル性の優秀さに、さらに気づくことになるんじゃないだろうか。

(同書)

と述べています。
要するに、自身の評論という手段でアニメ業界の大きな発達や、
ユーザーの拡大は見込めないかもしれないが、
その評論を読んだ人には、何かしらの気付きを残したいのだという事です。

私は、評論としての価値を大きく左右するポイントは、
こういった姿勢の積み重ねにあるのではないかと感じています。
もっというと、それらの積み重ねは、
評論家(プロ)の評論と、そうではない者の評論とを隔てる線です。
その線は、決して細く真っすぐ引けるものではないかもしれません。
しかしいくらその線がぼんやりとしていたとしても、
素人の評論という土俵の外側にちゃんと存在するためには、
前述の「大原則」の様な理念が必要なのではないでしょうか。

そしてその「大原則」は、辛口評論に言及しています。
天原くんは、手厳しい批評こそが作者と作品のためであると言っていました。
彼の主張と藤津氏の主張は、対立しています。

藤津氏は、辛口評論に対してこのように言及しています。


駄作の駄作たるところを指摘しても、スケジュールやギャラといった基礎条件の変化がなければ、常に一定数の駄作は生まれ続けることになる。
さらにここに先述した、集団制作という難しさが加わる。作品を見ただけでは、その作品の“傷”がなぜ生まれたのか分からないのだ。そこを決めつけで書くのは不誠実であろう。
(中略)
アニメにおいて「評論が駄作を淘汰する」ということは、非常に難しく、あまり意味のある考えでは無いと思う。

(同書)

そして「大原則」で辛口評論に言及した大きな理由として


なにしろ辛口評論は、“誤読”が許されない。全編を高い精度で読解できる自信が必要なスタイルなのだ。

(同書)

このように藤津氏は、辛口評論が要求するその慎重さはあまりにも過大で、
プロといえどもおいそれと手を出せる代物ではないと考えているようです。
そして辛口評論に意味や意義を見出す事もまた難しい、とも捉えているようです。

こういう考え方をしている評論家は、藤津氏だけなのでしょうか。


小林秀雄は、批評文としての「悪口」について、このように書いています。


自分の仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とはほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。

(小林秀雄 『考えるヒント』文藝春秋(1974年)「批評」より引用)

文末を「言えそうだ」とやや濁しているとはいえ、
批評による「悪口」「けなす」という行為を、少なくとも小林はマイナスに捉えている事が分かります。

小林はこの文に続いて、
「非難否定の働きの非生産性」よりも自身の主張を優先する批評家に対し、警鐘を鳴らしています。

天原くんの手厳しい批評は必要だという主張は、
小林秀雄と藤津良太という、歴史をまたぐ本寸法の評論家によって、否定されてしまいました。

では評論家は皆、「辛口」「悪口」「けなす」といった評論手法を避けるのでしょうか。
実はそうとも言い切れ無いという事を、私は体感的に知っています。

私の高校時代、私が勝手に「師匠」と呼んでいた方から、色んな事を学んでいました。
所属していた部活の課外授業みたいな形でしたが、
その部活の取り組み内容に限らず、師匠からは「大人」として多岐に渡る教えを受けました。

その師匠は、肩書として「評論家」を持っていました。
師匠はテレビでよく見かけるほどメジャーな方ではありませんが、
定期的にラジオに出演をする程度には業界の方でした。

そんな私の師匠ですが、その口から出てきた彼の評論は、
大半が辛口や悪口だったのです。

私の師匠の、そのまた師匠は、かなり知名度のある人物でした。
そして師匠同様、評論家の肩書を持っていました。
高校時代の私は、評論家というのは皆こんなにも見事に辛口なのかと、恐れ入ったものです。

ところが高校を卒業して、
師匠が出演しているラジオや、師匠の著作物をあらためて見てみたら、気付いたのです。

『あの辛辣な口調はどこへいったん!?』


師匠は、自分が公に発する言葉や文章には、
ほんのひと匙も「辛い」要素を混ぜこんでいなかったのです。
師匠のそのまた師匠も同様でした。

師匠がなぜ「私と公」を使い分けていたのかを、
小林秀雄や藤津良太ら評論家が証明してくれている様に私は感じています。
彼はたしかに毒舌家でしたが、
しかし評論として自身の直情を扱うことの難しさや無意味さを、
彼は知っていたのではないでしょうか。

私の師匠は既に鬼籍に入っており、それを問うことはできません。
本当のところがどうであったかは分かりませんが、
彼のその極端な二面性こそがプロの評論家として為せる業なのだと、私は信じたいです。

------

ここまで天原くんの「手厳しい批評」必要論に対して、
プロとして活躍している評論家の例を挙げて反論してきました。

とはいえ、世の中には「手厳しい批評」が溢れに溢れています。
それは消費者からだけでなく、
発信する事で金銭を得ている……つまり、プロからも散見されます。

この一連のシリーズで度々言及していますが、
Youtubeでの動画や、SNSなどで発信する内容について、
『言いたい事をハッキリ言う』的な言動が多数から支持されるのは珍しくありません。

例えばYoutubeでは、「クソ台ランキング」なるものをよく見かけます。
わざわざ視聴者にアンケートを取り、投票してもらってランク付けをしている様です。
その動画では、ランクインした台に対して、メインパーソナリティは時に悪し様に罵ります。
加えて「視聴者のアンケート回答例」という形で、
ボロクソな批判を紹介し、これでもかというくらい台を馬鹿にする形式をよく見かけます。
アンケートという形が分かりづらくさせていますが、
視聴者の意見の中から選び取っているのは編集側であり、
あえて酷い言葉を選び、用いているのは明らかです。

また、新台が出るたび、それを評価する動画も沢山作られています。
中にはその新台が導入される遥か前、PVを見ただけでクソミソに貶している動画も少なくありません。
それが数十万のチャンネル登録者がいる配信者である事など、全く珍しくもありません。

……さて、これらは評論や批評なのでしょうか。
言葉の定義から言えば、評論や批評に当てはまるでしょう。

では、プロとしての良質な評論と言えるでしょうか。
小林や藤津氏の主張を元にして考えれば、そうとは言えないでしょう。

藤津良太は、そもそもランキングという評論の手法を極力避ける評論家です。
安易な順位付けや作品どうしの比較は、
おそらく作品そのものと向き合うピントを狂わせてしまうからでしょう。
媒体のコンセプト上、仕方なく評論にランキングを用いざるをえない場合、
藤津氏はいつも「形式的な順位付け」であることを、ひと言添えています。

また、自身が未視聴である作品に対して、藤津氏が評論している姿をみたことがありません。
PVを見ただけで判断するなど、想像すらできません。
ましてその作品を彼が罵倒する事などあり得ないでしょう。

“誤読”が許されないという、彼のポリシーがそれを許さないでしょうし、
彼の著作を愛読している者として、彼を信頼しているという思いもあります。
世にアニメレビュー多かれど、
私は、藤津氏の著作ほど安心して読むことができる評論を知りません。

掛け値なしに全幅の信頼を置いて、文字を自然と頭に入れる事ができる。
そんな安心感を持てる良質な評論は、私はどの分野においても必要なのではないかと考えています。

たとえば書籍であれば書評、映画であれば映画評論。
いろんな分野にプロとして評論を扱っている者がおり、媒体があります。

一方で、パチンコ業界はどうでしょうか。
このパチンコ業界に、藤津良太氏のような、
評論家としての矜持を持って、良質な情報を発信し続ける人は居ますでしょうか。

私のみえる範囲ではありますが、ライターや演者にそれらしき人が見当たりません。


それらの人の中にも、実直かつ真面目に自身の職務を果たし、
業界を盛り上げようとしている方々がいるのを知ってはいます。
しかしそんな彼らであっても、
他業界の評論家と同じレベルの言葉や役割を持っていない様に見えます。

そんなパチンコ業界と他業界の評論手法の差について私の考えを述べたいのですが、
その前に、ヨイコノミライの言を引きたいと思います。

ヨイコノミライの最終巻である第四巻にて、
ヒロインである青木杏が、天原くんへ手痛い言葉を浴びせます。


アナタが簡単に他人を蔑むのは賢いからじゃない。
他人を理解しようともしない、馬鹿だからよ。
気楽なもんね、自称批評家さん。
批評っていうのは感想文でも、作者への意見書でもないわよ。
人が作ったものを安易にくさして優越感にひたるヤツのために、皆は必死で描いてるんじゃないわよ。
一読者より昇格してるって言うなら、作品にもっと真剣に取り組みなさい。


これに対して、天原くんは反論します。


誠意あればこそ耳の痛い忠告も申してやるのですわ。甘受するのは作者の義務ですぞ!


すでに紹介したこの台詞は、
青木杏の批判に対する反論でした。
「手厳しい批評」は、彼が批評家を名乗る上でのポリシーでした。


誠意?
自己顕示欲でしょ?アナタの!
誠意があるんなら、
セリフの向こうの作者探しや他の作品とのくらべっこばかりしてないで、
内容そのものに興味を持ったら?
貧弱な読解能力でも少しは使って見せなさいよ!


そんな彼のポリシーは、そもそも利己的な自己顕示欲からくるものであり、
彼が自称する批評家はハリボテに過ぎない事を、青木杏はすぐに喝破してしまいます。
そして彼女は、本来の批評家とはどうあるべきかを提示してくれます。


誤解しないでね。
私、本当の批評家は大好きよ。
作品への新しい読み方を提示して、
作品と作家と読者に、
新しい道を拓いてくれるから。

(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」第4巻より引用)


{Photo06}


(きづきあきら「ヨイコノミライ完全版」第4巻より引用)

青木杏の一連の言葉は、
パチンコ業界に向けてこそ放たれるべきではないかと私は思うのですが、
みなさんはどうでしょうか。
彼女の言葉を、パチンコ業界にあてはめて言い換えてみます。

--
私、本当のライターは大好きよ。
パチスロの新しい打ち方を提示して、
パチスロとメーカーと打ち手に、
新しい道を拓いてくれるから。


あるいは


私、本当の演者は大好きよ。
パチンコホールでの新しい楽しみ方を提示して、
ホールとスタッフと客に、
新しい道を拓いてくれるから。
--



……パチンコ業界と他業界の評論の差。
それは「新しい道」を、拓いてくれるかどうかの違いなのではないでしょうか。

とはいえ、他の業界が評論の力によって大きく成長した例は、
それほど多くありません。
評論によってパチンコ業界を大きく成長させる事は、難しいのかもしれません。

しかしだからといって「手厳しい批評」がこの業界を成長させるとは、
どうしても私には思えないのです。
その理由は、小林や藤津氏の言を借りて、重ねてお伝えしてきました。

演者とよばれて配信をする様な方が、
「打ちたい台が無い」などと堂々とのたまわっていたり。

ライターと呼ばれてそれなりの威信を持っている方が
「6号機は新しい要素が無い」からといって、
魅力の掘り下げを諦めてしまっていたり。

そんな人たちばかりに目がいってしまって、
「新しい道を拓こう」とする姿勢を持つ人を、
私はこのパチンコ業界でほとんど見つけられずに居ます。

このシリーズの第4回で、「人は真似をする生き物」だと述べました。
SNSでは、常に勝ち負けに拘泥している人や、台のことを四六時中罵っている人たちがいます。
私は彼らの事を眺めていて、誰かの真似をしているのでは無いかと思う時があります。

というのも、前述したクソ台ランキングの動画や、
台をメチャクソにこき下ろす動画を観ていて、私はとても疲れるからです。
なぜ疲れるのかというと。
ついつい気持よくなってしまいそうになる心を、必死で引き留めているからなのです。

それまでその台について何とも思っていなかったとしても、
動画で馬鹿にするような紹介をされていると、
その台の事を「馬鹿にしてもいい台」と思ってしまいそうになる事がよくあるのです。


私のこの感情の動き方が、第4回で紹介した「共感」や「カメレオン効果」などであるとするなら、
動画をみて「自分も馬鹿にしてもいい」と思ってしまう人は、私だけでは無いという事です。
一度「馬鹿にしてもいい」と覚えてしまうと、
その動画でパーソナリティと一緒に馬鹿にしはじめてしまい、
そしてそれが不思議と気持ちよくてたまらなくなるのです。

そんな心の揺れ動きのヒントも、第4回で「情動的共感」として紹介しました。
しかしどうせ共感するのであれば、その台の事を「素晴らしい!」と褒める事に共感したいものです。
けれどそれが難しい理由は想像がつきます。

私は、パチンコ業界にプラスよりもマイナスのメッセージにあふれている理由は、
後者の方がより簡単だからだと思っています。
良いところを見つけ、それを人に伝える事は、
往々にして、無責任に馬鹿にするよりも何倍も難しいのです。

パチスロ台にしても、馬鹿にするときは「デキレ」とか「ミミズ」などと言っておけば、
とりあえず馬鹿にする行為が成立し、なぜその台を悪く言うのかが何となく理解できます。

しかし台を褒め、共感を得ようとするのは「面白い」とか「脳汁出る」では、なかなか伝わりません。
面白い理由はなんなのか、どれくらい面白いのかなどを付け加えなければ、
人の共感を得にくいと私は感じています。

特にその「面白い」が、それまでにない新しい要素なのであればなおのことです。
受け手は過去の経験から感覚を参照する事ができないので、
どんな風に面白いのかを具体的に説明しなければいけません。


馬鹿にするときは「出ない」のひと言で、受け手はすぐに感覚的に理解します。
しかし褒める時は、なかなかそうもいかないというのが、
自分がフェアリーグランプリ等の台を推していて実感した事でもあります。

このようにして「手厳しい批評」というのは、
受け手にとって共感しやすく、気持ち良くなりやすいのです。
それは、これを書いている私も同じで、
理性が無ければ水が低きに流れるが如く、一緒に台を馬鹿にして気持よくなってしまいます。

しかし、そういう誘惑に溺れてしまいそうになるたび、
ヨイコノミライの青木杏の言葉が頭をよぎるのです。


人が作ったものを安易にくさして優越感にひたるヤツのために、皆は必死で描いてるんじゃないわよ。


私に評論家としての矜持はありませんが、
人としての矜持を持ちたいとは思っています。
台の向こうにいる、無数の「必死な」人達のためにも、
私は溺れる訳にはいかないのです。

私が天原くんに対して「これは自分だ」と思ってしまうのは、
どんな高尚な事を私が言っていたとしても、ともすれば簡単に溺れてしまうからなのです。

溺れるのは簡単です。
泳ぐのを止めればいいだけなのですから。

-----


私は、「新しい道を拓く」ヒントは、「出玉以外の言葉」にあると思っています。
というのも、私の観測範囲内では「出玉以外の言葉」を全く見かけないからです。


このシリーズの第二回では、
パチンコホールを構成する要素は無数にあるのに、
その評価はほぼ出玉でもって行われる事に疑問を投げかけました。

それはパチンコホールにかぎらず、台や、メーカーなどへの言葉も同様です。

台を褒める時、演出や出目などを賞賛しますが、
それらは「出玉」と無関係でしょうか。
そのほとんどは、「出玉」と関連する形で現れる演出や出目なのではないでしょうか?

メーカーも、出玉に強く関連している熱い演出には、当然力を入れているでしょう。
ユーザーも、そういう部分に魅かれやすいのは事実です。
ですから、それを褒めるなとは全く思わないですし、
「出玉」と関連する言葉であってもどんどん発するべきです。
「出玉」こそが、他の娯楽に無く、パチンコ・パチスロにのみ備わっている個性なのですから。

では、「出玉以外の言葉」とはどんな言葉なのでしょうか。

それは「面白い」「楽しい」「すごい」「かっこいい」「かわいい」など、
それらが成り立っている要素ひとつひとつを分解する事で見えやすくなってきます。

例えば、パチスロの演出は、以下の様な要素で成り立っています。

音、声、画、光、タイミング、振動、長さ、前後の流れ、演出の結果得られるもの、その演出が生まれた経過、時代背景、キャラクターと背景、台詞、ユーザーインターフェース、フレームetc…

それらの要素は、特に熱くない演出であっても存在しています。
しかし打ち手の殆どは、そんな数々の要素に思い至ることなく、
「分かりやすい部分」のみを直観的に受け取って、それを感情に変換させています。

よく「通常時が虚無」という言葉を見かけます。
そんな虚無的な通常時であっても、数多の要素が打ち手に提供されているはずです。
しかし、打ち手はそれを関知する事ができないか、
出来たとしても「面白くない」と感じてしまうから「虚無」という感想に至ってしまいます。

ライターを評価する基軸として、台に対する知識が良く挙げられます。
しかしその知識も、台を攻略するための知識なのだとしたら、それも「出玉に関する言葉」です。
台に対する知識というのであれば、攻略的な側面だけでなく、
その台を構成するあらゆる要素について知識を持ち、あるいは見識を持った評価もしてほしいのです。

例えば、「素晴らしい絵」が線の太さや色使い、形の取り方など、無数の要素で構成されているのと同じです。
「この部分のこの線が素晴らしい。何故なら…」のように、絵を描けない人では分かりづらい事を、
説得力をもった言葉で伝えて欲しいのです。

私は、そんな評論が、あまりにもパチンコ業界に欠乏していて、
そしてそれがパチンコ業界の空気を作っているような気がしてなりません。

「出玉」に関わる言葉は、分かりやすく、受け手にも共感を得やすいです。
なぜなら、受け手は「出玉」を体感的に理解しているからです。
しかし「出玉」という評価の基軸は、
結局「出なければクソ」「出れば最高」という結論に陥りやすいのです。

その両極端で直情的な感情のゆれうごきこそが、
まさに射幸心と呼ぶようなものなのかもしれません。
もしも射幸心というものの坩堝から、パチンコ業界はもう少し距離を取った方がいいというのであれば、
私はこう答えたいです。

「みんなもっと出玉以外の言葉を使って下さい」、と。

そうではなく、もっともっとユーザーの射幸心を煽りたいというのであれば、
どんどん出玉に関する言葉をつかうべきでしょう。
そうすれば、今後出てくる台も、そのユーザーに合わせたものが出てくるはずです。
パチンコホールも、そんなユーザーの意識に合わせて営業方針を組み立てるでしょう。

でもそれって、私はめっちゃ勿体ないと思いますけどね。

台も、ホールも、
良い所がたくさんあるのに。
あまりにもたくさんあるのに。

本当にこの業界は、もったいない事をしているなと、私は思います。

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最後に、蛇足的ではありますが、ありおりがパチスロを打つ上で気を付けている事を書き連ねて行きます。
これはあくまでありおりの「原則」であって、他の人に押し付けるものではありません。
また、ありおり自身も守れていない事が多いです。
むしろ、過去にそんな間違いを犯してしまったからこそ、もう繰り返すのはやめようという反省のもと、「原則」として心にとどめたものが多数あります。

過去にこんなツイートしてたじゃねぇか、なんて私のファンの人が万が一にでもいらっしゃったなら、
そのあたりは大目に見て頂けると幸いです。

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・分からない事をそのままにしておく
安易に決めつけたり、侮ったりしない。予測は予測であって、あらゆる可能性のひとつでしかない。分からない事は分からないものとして、保留状態に。


・他の台と比べない
安易にどちらの台が優秀かを比べたり、順位付けをすることは、そのテーマ自体以上の意味を持たず、台そのものと向き合っているとは言えない。その台の優秀さを表現するために、他の台を貶める形は妙手とは言えないのではないか。その台が生まれた歴史的経過を説明するために過去の台を挙げるなどの手法は必要なのは間違いなく、本質的にその台と向き合っているかどうかが判断基準となる。

・先入観を持たない
「出来レース」「突破型」「6号機だから」といった定型文が流行っているが、そういった先入観を持たずに打つ事が肝要。刷り込み的な思い込みは台の魅力を捉える判断力を曇らせる。

・相性や好き嫌いを切り分けて考える
好き嫌いはあってもいいが、一度台に座ったからにはその台をめいっぱい楽しむつもりで打つ。たとえ自分に向かない台であっても、好きになれる要素を探す。好きを発見できないのは、自分の視野の狭さゆえ。直感的な好き嫌いに従う事も必要かもしれないが、それはハードルが低い。理性的・自己批判的に打つ事を意識すると、それだけで多くの発見がある。

・けなさない
打っている時はもちろん、打った感想等を発信するときには言葉に気を付ける。
ネット上で台をけなした時、その言葉を読んだ人がその台を打つ可能性を狭めてしまうかもしれない。実際に打って判断してもらうべきなのに、打つという選択肢を排除してしまう。台パンは許されない行為だが、時に台パン以上のインパクトをその台にもたらすのがソーシャルメディア。稼働が減ってしまうのは、台の設置寿命が減ってしまうだけでなく、高額を出して購入したホールや、開発したメーカーにも被害が及ぶ。一方で、台の事を悪く言おうがそれは権利であり、守られるべき行為。だからといってそれが業界にとって有益かどうかは別であり、もしも害あるものだとすれば、それはホールからユーザーへの還元率にも多少ならずとも影響し、めぐりめぐって自分の首を締めることになるのではないか。

・最強スロット論を持たない
スロットは様々な制約のもとになりたっていて、出来る事に限りがある。
開発に携わっていない自分が「最強論」を考えても空論にすぎず、益体もない。どうしても「あるべき論」になってしまい、むしろ冷静に台を評価するのを妨げる。


・賭博的価値と遊技的価値を切り分ける
お金を使ってメダルを借りている以上、勝率や射幸性が台の評価を左右するのは致し方ない。しかし「勝てる」を台を評価する最低ラインにしてしまったり、それのみを評価の基準としてしまっては、スロット台に対して失礼だと思う。しかしそれらをしっかり切り分けるのも大事な一方で、それを上手く嚙み合わせることが開発者にとっては妙味のひとつだと思うので、グラデーションを持った視点が必要なのでは。




・時代的な意義と立ち位置を考える
規則が変わった直後の実験的な台や、その時々の流行を反映した台など、その台の開発背景には、様々な背景がある。世間的に評価が低かったとしても、遊技機開発全体の流れの中で何かしらの意味を持っているはず。台そのものと向き合う一方で、過去と未来をふまえた上でその台がどういった立ち位置に存在するのかを捉えることもまた、その台をしっかりと見据える上で必要だと思う。


・どれだけの量を打ったのかを考慮する
スロット台は、たとえどんなに打ち込んだとしても、そのすべてを理解するのは困難だと思います。だから常に「~G打った時点での感想」になってしまう。しかしいちいちそんな接頭語は付けられないので、せめて浅はかな事は書かない。まして打ち込み足りない状態でその台のマイナスポイントを挙げるのは避けたい。


・「木を見て森を見ない」に陥らない
台の一部だけを取り上げて、それを全体的な評価にしてしまわない。ことさら一部の欠点をとりあげて、その台を過小評価しないようにする。パチスロは「遊技」である性質上、欠点は分かりやすい場合が多く、長所は短所の陰に隠れてしまう事が多い。入り口の雑木だけを見ても、森の深さ・高さは分からない。入り口が入りやすくなっているかを評価することも大切だが、それはあくまで森の入り口の評価であって、森としての評価ではない。


・世評を思考の外に置く
世評=世間の評価。SNSやブログ、雑誌、動画サイトなどでどういった評価をされているかを参考にする事自体は問題ない。しかし自身の判断が、その世評に引っ張られてしまう事はパチスロに限らず何にでも起こりえる。一度知ったものを忘れる事は難しい。評価をする時にその評価が世評に影響を受けているかどうかを、頭の中で一度フィルターを通す必要がある。


・周りで打っている人やホールの悪口を言わない
もしも直して欲しい事があるなら、直接伝えるたい。SNS等で他人やホールに対して愚痴めいた事を書くのは、直接言えないからであって、むしろ自身がその人間性を問われる。写真等を晒す行為はなおさら。


・勝ち負けに拘泥しない
勝った負けたは結果論であり、その結果で評価を左右しないようにする。また、勝ち負けに拘ってしまってしまうと、パチスロを楽しむ基準も勝ち負けが主になってしまう。負けても


・運の良さ悪さを加味する
運の良い悪いはつきものだが、それに左右されすぎて評価の軸を鈍らせない。


・批判は責任と確証が必要
直情的で正直にみえる感想(俗な表現で「ハッキリいう」)は、理性の敵。批判するなら根拠と意義を明確にすること。


------

次回は、これまでの論説をふまえたうえで、
パチンコ・パチスロが「現代の」大衆娯楽となりえるのかについて、
自分の考えを述べます。
それが最終回となる予定です。


つづく。

4

アリオリ侍:Reさんの

※本記事はユーザー投稿コンテンツです。

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このコラムへのコメント(2 件)

プロフィール画像
アリオリ侍:Re
投稿日:2023/02/28
mareさん
ありがとうございます。
最終回と記事の修正がんばります
プロフィール画像
mare
投稿日:2023/02/24
最終回を読んでからコメント書こうと思います。今回も面白かったです、次回も楽しみにしてます!

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